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涙あふれて / 浜田省吾 (1978) 

自分が厨房の頃、音楽に関する最も重要な情報源はFMラジオだった。


音楽に興味を持ち始めた当初は父親のお古のラジカセを使っていたのだが、中二の秋に14歳の誕生プレゼントでシステムコンポを買ってもらってからは、ステレオで鳴るFMの音に感激してFM雑誌を片手に片っ端からエアチェックしまくったものだった。
エアチェックなんて言っても、もう今時の若い人にはそれ何?おいしいの?って感じなんだろうけど、要はラジオで流される曲目をアナログの磁気テープに録音していたのだ。
テープ代はかかるものの録音はタダでできるので、金のない厨房にとってはものすごく貴重な音楽ソースだった。当時の自分の音楽体験の80%以上はFMのエアチェックによるものだったんじゃないだろうか。残りのうち10%が友人から借りるソースで、自己資金で調達したソースなんて10%もなかっただろう。エアチェックして気に入ったものの中から、どうしてもレコードで持っておきたいものを買うという形だった。

FM雑誌に曲目が載っている場合は事前に用意してタイマー録音なんてこともできるけれど、リクエスト番組だと何がかかるかわからないからずっと張ってなければならない。
DJの下らないおしゃべりに飽きてちょっと油断してると、知らないうちに次の曲がかかっていて曲名やアーティストがわからなかったりすることも多々あった。

今みたいにネットでググればいくらでも情報が出て来るわけじゃない。
ネットの通販サイトで視聴できるわけでもない。
自分の気に入った音に出会うためにかけていた労力は今思うと物凄いものがあった。
とにかくいい音楽に出会いたいという一心、というわけでもなかったのかもしれない。
全身全霊を込めてエアチェックに命をかけるという行為自体が楽しかったという側面も否定はできないだろう。



FMで最初に浜田省吾を聴いたのは最も熱心にエアチェックをしていた中三の時だった。

NHKローカルFMのリクエスト番組の今週のリクエストベスト3、みたいなコーナーで彼の新しいシングル「涙あふれて」が紹介されていたのを鮮明に記憶している(順位は定かでないけど)。
「風を感じて」がカップヌードルのCMソングになって中ヒットするちょうど1年くらい前の話だ。浜田省吾史的にはいわゆる暗黒時代に相当する頃。
広島(実際には呉だけど)出身だからというわけでもないのだろうけど、その番組では浜田省吾は妙に人気があった。
まあ、実際は親戚縁者や知人がリクエストしてただけで、広島ローカル局の番組だから10票も集まればベスト3に入っちゃうのかもしれないけど、真相は何であれ、自分は全国的には全く無名だったはずのアーティストのその曲を一発で気に入ってしまった。



ホテルのバーに座り 雨の中に消えてく 君の後姿 僕は見てる


イントロもなくいきなり始まるその曲は、メロディアスで切なく、それでいて少なくとも当時蔓延していた「ニューミュージック」系の曲とは明らかに異なる「ロック」の肌触りを感じさせた。
当時の自分は"Darkness on the Edge of Town"でBruce Springsteenと出会って間もない頃である。
"Prove It All Night"がロックなら、これもロックだ。

「涙あふれて」は何週か連続してリクエストベスト3にランクインしていた。
繰り返し聴いているうちに他の曲も聴きたくて我慢できなくなり、シングルから一ヶ月遅れでリリースされた彼のニューアルバム「Illumination」を買いに行った。

そして、自分は完璧に失望することになる。

今思えば「Midnight Blue Train」や「片思い」は、初期の浜田省吾を代表する名曲だと思うが、「涙あふれて」に魅せられた自分が求めていたのは、ポップ・シンガーやバラード・シンガーとしての浜田省吾ではなく、ロックンローラーとしての浜田省吾だったのだった。
このアルバムは当時の流行の「ニューミュージック」のアルバムになっていた。
浜田省吾自身もこの当時の活動について後に「ポップなメロディを書くこと」を過剰に求められることに違和感を感じていたと述べているが、要するにそういう時代だったのだろう。ロックンローラーではなくシンガーソングライターであることを求められる時代、だった。
自分がこのアルバムに感じた違和感は、その後追体験したBruce Springsteenの最初の2枚のアルバムに感じた違和感と同種のものだったのかもしれない。


自分が“ロックンローラー”浜田省吾に再会するのは、2年後の「Home Bound」のリリースまで待たなければならなかった。
その頃はもうエアチェックへの情熱もだいぶ失ってしまっていたが、2年前「涙あふれて」に出会ったのと同じ番組で「Home Bound」からの先行シングル「明日なき世代」を聴いた時に、それこそ♪稲妻が俺の体突き抜け♪たのだった。
続いてリリースされた「Home Bound」は紛うことなきロック・アルバムだった。
1曲目の「終わりなき疾走」は浜田省吾にとっての"Born to Run"だった(ベタだけど)。

その後の彼の飛躍は、わざわざここで書くことも無いだろう。
武道館を満員にし、アルバムチャートで1位を獲り、トレンディードラマの主題歌は200万枚を超える売上を上げるようになった。
そうした巨大な成功に、自分は興味が無いとは言わないけれど、どこか遠くまで行ってしまったという思いは否めない。
あの時、「涙あふれて」から「明日なき世代」までの2年間に彼に何が起こったのかはわからないけれど、その2年の落差を実体験した記憶こそが自分にとっての浜田省吾のほぼ全てということになるのだろう。


Illumination Home Bound

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ひとりぼっちのサーカス / 石川ひとみ (1979) 

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石川ひとみがアイドル歌手として大成しなかったのは、昭和歌謡界七不思議の一つと言っても良いほどのミステイクなのだが、それを時代のせいだけにしてしまうのも無理があるような気はしている。


以前、大場久美子に関するエントリで、1970年代後半を「アイドル冬の時代」と形容したが、実はその前提となる「アイドル歌謡曲システム」が日本の音楽マーケットにおいて完成したのは1972~73年頃でしかない(「悪魔がにくい」 / 平田隆夫とセルスターズ参照)。
いわゆる中三トリオをヒエラルキーの頂点にして構成されたシステムは、「中三トリオ」から山口百恵が突出し、予想よりも早く脱アイドル化したことによって崩壊せざるを得なくなってしまった。
中三トリオよりも上の世代の麻丘めぐみやアグネス・チャンは結婚や学業といった自らのキャリア形成のために途中退場を選択し芸能界を去った。
彼女らが早退したあと、本来ならば中心的存在となるべきだった同世代のキャンディーズは、ピンクレディーという幼児・小児女子向けのトリックスターとの比較を余儀なくされ、歌謡システムの中では埋没させられて早期解散へと追い込まれた(「解散ビジネス」の見事さには特筆すべきものがあったが)。
中三トリオの残りの二人、実力的にはナンバーワンだったはずの森昌子は閉鎖的な「演歌」の世界にその身を幽閉されて頭を押さえつけられ、本来ならばトリオの中核を成すはずだった桜田淳子は山口百恵に抜かれたショックから進むべき方向性を見失い迷走してしまった。
要するに1978年頃には「歌謡界」に女性歌手は山口百恵一人だけしか存在し得ないかのような独占状態にあり、「歌謡曲システム」に依拠する限りそこにアイドル歌手(特に新人の)が食い込む余地は全くなかったのだった(ちなみに、男性アイドルに関してはやや事情が異なるものの、新御三家の後継を作れなかったという点では状況は同じだったとも言える)。

「アイドル歌謡」にとって、新陳代謝ができないというのは致命的だ。
なぜなら、既存のアイドルは年を取っていくのだから。

この時期のいわゆる「ニューミュージック・ブーム」は、70年代前半に隆盛した「フォークソング」が、アイドル歌謡の危機とも言うべき状況に乗じ、歌謡曲システムの予定調和に対する軽いアンチテーゼとして復権したものだったという見方が正しいのだろう。
そういう意味では山口百恵とピンクレディーがニューミュージック・ブームを産んだという言い方もできるのだが、それを述べるのが本稿の目的ではないので割愛。

危機を迎えたアイドル歌謡側が取った方策の一つは、「アイドル歌謡曲にニューミュージックのエッセンスを取り込む」というものであった。
要するにニューミュージック系のライターにニューミュージック風の曲を書かせるというだけの安易な戦術なのだが、結果的には1980年代にアイドル歌謡曲を空前の隆盛に導くことになる。意外と誰でも考えつく正攻法にこそ正解があるということなのだろう。
一方でニューミュージック系のアイドルを作るという試み(沢田聖子や竹内まりやはこのコンセプトか?渡辺真知子はビミョー)もなされていたが、こちらはコンセプトに見合った素材を発掘するのが難しく、「アイドル」の路線としては無理があった。


結果論から言うと、この手法の確実な成果は1980年の松田聖子の登場を待たねばならず、そこに至るまでの過程は、今思えばかなりトホホ気味の試行錯誤の連続だった。

*細かいことを言えば、山口百恵やキャンディーズも宇崎竜童、吉田拓郎を起用してるので、「冬の時代」云々以前に両者のクロスオーバーは始まっていたのだろうが、彼らは自分が歌うために書く楽曲と、他人に提供する楽曲を明確に区別していたという点で既に「ニューミュージック」的ではなく、職業作家的な存在になっていたと言えるだろう。


CircusJacket.jpg


そんな「冬の時代」を代表するアイドル石川ひとみの「冬の時代」を象徴する代表曲。
上述の「ニューミュージック化」政策に基づき、谷山浩子が書いた曲で、のちに本人も「サーカス」というタイトルでセルフカバーしている。
「ニューミュージックのエッセンス」というコンセプトはわかるとしても、楽曲を依頼する相手を間違えている。

だって

さあ目をさませ 人形たち
さあ目をさませ ナイフに鏡
さあ目をさませ ひとりの部屋の
午前零時のお祭りに

さあ目をさませ 人形たち
くだけた心 つつんでおくれ
ひとりの部屋の ひとりサーカス
せめて涙のかわくまで

だよ。

石川ひとみはデビュー曲からして「右向け右 Ah 心が叫ぶ 左に行く彼追っちゃいけない」みたいな感じで、やや物憂いタイプのキャラで売っていたので、その路線を踏襲したということなのかもしれないけど、いくら何でもこれはアイドルが歌う歌じゃない。

谷山浩子ワールドが暴走している。

当時「もうひとりのアリス」がフェイヴァリットアルバムだった自分のような谷山ヲタでさえ、石川ひとみがこの曲を歌うのをテレビの歌謡番組で見て、軽くひいてしまったくらいだ。
メロディーだけを取り上げると、歌謡ポップスとして聴いてもそれほど違和感はなく、確かに良い曲ではあるが、それは山崎ハコの「人間まがい」が良い曲だというのに近いニュアンスがある。
喩えがわかりにくくて申し訳ないが、この辺が失恋ソングライターとしての谷山浩子と中島みゆきの大きな差で、どちらかというと非日常的な世界に逃避してしまいがちの谷山浩子の失恋ソングは重過ぎてダサいのだ。いわゆるメルヒェン的な世界は、ハッピーソングであれば容認できても、失恋ソングの舞台装置としては却ってドロドロした怨念を惹起させてしまう。それでは「アイドル歌謡」としては成立しない。

「私の青い鳥」が許されるのは、それが幸福なラブソングであるからなのだ。

蛇足の上に勝手な想像でしかないのだけど、この曲は当時の谷山の新作だった「鏡の中のあなたへ」とイメージが著しく重なるので、「鏡の中のあなたへ」の捨て曲だったんじゃないかという気はする。

石川ひとみは、正統派アイドル的なルックスと高い歌唱力の割に売れなかったのは、「冬の時代」だったからではなく、プロモーション戦略のミスに負う部分も大きかったのではないか。
今振り返ると、天地真理、アグネス・チャン、キャンディーズと「アイドル歌謡」の王道を走っていた渡辺プロ(現ワタナベエンターテインメント)にとって、石川ひとみのような好素材をアイドルとして成功させられなかったというのは、考えられないような大失態であり、ある意味で大きな転機となる事件だったのではないか。
少なくとも同期の石野真子に大きな差をつけられたのは、斜陽気味の渡辺プロに対し、バーニングが上り調子だったというプロダクションの勢いの差もあったのかもしれないが、吉田拓郎を起用しながら正統派アイドル路線を崩すことがなかった石野真子のプロモーションの妙に比べると、石川ひとみのプロモーションには時代への迎合以外の戦略性が見えなかったことも事実である。
あるいは、この時期の石川ひとみの迷走は、戦後の芸能界を席巻してきた渡辺プロの衰退を象徴しているのかもしれない、とやや大げさな見解を述べておこう。

渡辺プロは、女性アイドル全盛時代だった1980年代以降、おニャン子出身の岩井由紀子と河合その子を除いて、アイドルの売り出しはほとんど成功していない。
1990年代以降はお笑い部門に傾注し、今では吉本と並ぶお笑いタレント事務所と言って良いだろう。
その転換に、石川ひとみでの失敗が微妙な影を落としていると言えなくはないだろうか。

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石川ひとみといえば、アイドル歌謡が勢いを取り戻し始めた1981年に放った「まちぶせ」の大ヒットが有名だが、この曲も松任谷由実の曲だった。
デビューして最初の2曲(「右向け右」「くるみ割り人形」)こそ、宮川泰、馬飼野康二といういわゆる歌謡界の大御所が書いているが、3作目の「鮮やかな微笑み」は西島三重子(「池上線」のヒットで有名)が書いており、4作目がこの「ひとりぼっちのサーカス」。
その後も「ハート通信」(吉田拓郎)、「夢番地一丁目」(芳野藤丸)とニューミュージック系のライターをコンスタントに起用しており、「まちぶせ」の大ヒットは足かけ3年のニューミュージック路線がようやく花開いたということだろうか。
と言っても、この曲は1976年に三木聖子が歌っており、ある意味アイドル歌謡曲のカバーバージョンという位置づけでもある。
あまりアイドル的ではない楽曲かもしれないが、オリジナルのひどい歌唱と比較してしまうと、あまりに正統的で本格的な石川ひとみの歌唱力は否が応でも際立ってしまう。
三木聖子なんて相当にマイナーな存在なので、皆が比べられたわけではないだろうけれど、あのひどい曲がここまで見事にリファインされるとは俄かには信じがたいほどの衝撃を受けたことを記憶している。
作曲者自身のセルフカバーを聴いた時にも同じような思いを抱いたので、この曲は石川ひとみに歌われるために生まれて来た曲なのだろう。論理的ではないけれど。
まさに一期一会というものなのだろうが、それが同事務所の歌手が歌った曲のカバーバージョンだという点を考えると、この出会いに偶然性以外の要素を見つけるのは難しい。

何となく、3年間継続した路線がようやく花開いたというよりは、どうにもうまくいかないのでヤケクソで古い曲を引っ張り出して来たらたまたま嵌まったという印象がないでもない。
偶然だとしても「まちぶせ」に会えたことは、歌手石川ひとみにとっては僥倖だったけれど、そこまでに無為な時間を過ごしてしまったこともまた事実である。
不遇の時代を経て「まちぶせ」が嵌まったことで、彼女のキャリアは典型的な一発屋としての色彩に彩られてしまった。


今改めて「ひとりぼっちのサーカス」を聴き直してみると、そのエキセントリックな世界観に比して、意外とマイナー調の歌謡ポップスとして成立していることに気づく。
エグい内容の歌詞をさらりと歌っている石川ひとみのヴォーカルの真っ直ぐさは見事の一言である。特に「♪ひとりの部屋の ひとりサーカス」のあたりの伸びやかな高音には感動すら覚える。
何だか羞恥プレイにも似た倒錯感とまでいうと語弊があるが、歌われている世界観と歌唱法とのギャップに萌えるのだ。

あるいは彼女が早い時期にアイドル歌手としてのポジションを確立していれば、この路線もありだったのかもしれないと思わないでもない。



石川ひとみ★BEST MYこれ!クション
代表的なシングル曲が概ね収められているベスト盤。



石川ひとみといえば「プリンプリン物語」。
「プリンプリン物語」といえば石川ひとみ。
名曲「アクタ共和国国歌」(石川ひとみは歌っていないけど)も収録。

「知能指数は1300!」


スプリングサンバ / 大場久美子 (1979) 

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アイドル冬の時代と言われた1970年代後半にデビューし、アイドルポップスファンを驚愕と戦慄に陥れた大場久美子の、恐らくは最大のヒット曲にして最高傑作というべき曲がこの「スプリング・サンバ」である。

サンバのリズムと、「アーイエ、オーイエ」とかいうイマイチノってるんだかノってないんだかよくわからない合いの手に合わせて、大場久美子の超絶ヴォーカルが炸裂する。
きっと君も、バックトラックのコード進行を芸術的なまでに無視する、ディスコードの魔術師とまで謳われたその類まれなるヴォーカルテクニックに酔いしれること間違いなしである。
これこそ、元祖ニューヨークパンクのムーヴメントの中でDavid Byrne (Talking Heads)やTom Verlaine (Television)らが実現しようとして成しえなかったヴォーカリゼーションであり、このスタイルはその後のニューウェイヴムーヴメントを先導したIan Curtis (Joy Division)やLawrence Hayward (Felt)といったヴォーカリストたちにも多大な影響を与えている。

日本のポップス史上、彼女のヴォーカルの破壊力に匹敵しうるのは能瀬慶子くらいだろう。
比較対象として、菊地桃子、安田成美、三井比佐子、伊藤つかさといった名前を挙げることはできるが、彼女等はディスコードを作り出してはいるものの、圧倒的に破壊力が足りない。
いわば小手先だけのディスコードとでもいうか。腹の底からディスコードしていない。
歌手を本業にしないものとしてはオマリー(元阪神)やアル・ジョイナーやウッチーといったアンチコードとでも表現すべき一派も存在するが、あくまで本業の歌手に限ればやはり彼女以上の完成度を持ったディスコード・ヴォーカルは存在しない。
日本の歌謡界は、意外とこの後、能瀬慶子という別格の偉大な例外を除いて、彼女のような本格的なディスコード女性ヴォーカルを生み出していない(ちなみに能瀬慶子の代表曲は「アテンション・プリーズ」と言われることが多いが、個人的には「He Is コットン100%」を推したい。推したからどうなるものでもないけど)。

むしろ、この芸風は田原俊彦からシブガキ隊を経てSMAPに至るジャニーズの伝統として確立されつつある。
しかし、彼らのディスコードには萌えない。
男声でもIan Curtisのディスコードにはハアハアするもんだが、草ナギ君のディスコードには殺意しか覚えない。
さすがに中居君までいくとちょっと面白いけど。

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全盛期の大場久美子。
超可愛い。
密かに厨房時代大ファンだったことは秘密だ。


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ついでに能瀬慶子の「アテンションプリーズ」。
「能勢」慶子じゃないので注意。




東芝EMIとSMEの合同企画によるベスト盤「ゴールデン☆ベスト」
かなりゴールデンな感じ

悪魔がにくい / 平田隆夫とセルスターズ (1971) 

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「ハチのムサシは死んだのさ」のみの一発屋と思われがちな平田隆夫とセルスターズの最大のヒット曲は実はこちらだ、というのは、知ってる人は誰でも知ってるし、知らない人は興味すらないという類のトリビアだろう。

そもそもこの日本歌謡史に燦然と残るべき奇妙なバンド(?)の存在について、どの程度の認識率があるのかについてすら、自分には判然としない。
自分と同世代であればほぼ100%の認識率があるだろうと思うのだが、自分より一回り下の世代くらいになると、存在すら認識されてない可能性もあるのかな、と思ってる。
センセーショナルな登場の仕方に比べて、リバイバル評価的な動きがほぼ皆無なグループなので、リアルタイム体験世代以外への浸透度はかなり低いんじゃないだろうか。
まあ、実際にリアルタイムで見てないとあのインパクトは伝わりづらいところはあるかもしれない。

1971年に発売された彼らのデビュー曲にあたるこの曲は、翌1972年の2月、オリコン1位に輝いている。
当時のチャートを見ると、トワエモワ、ペドロ&カプリシャス、尾崎紀世彦、欧陽菲菲なんかが上位にいて、意外とベタベタな歌謡曲路線よりもかなりポップス色が強いことに気づく。この年の後半に郷ひろみ、アグネス・チャン、麻丘めぐみらがデビューし、翌年にかけて野口五郎、西城秀樹、中三トリオらがブレイクするわけなので、グループサウンズブームが去り、アイドル歌謡曲システムが完全に確立する前の過渡期にあたるということなのだろう。

セルスターズは明らかにグループサウンズではなかったけれど、フォークでもなかった。ムード歌謡グループでもなかったし、ピンキーとキラーズの二番煎じというわけでもなかった。
自分たちで曲を作って演奏しているのだから、「ニューミュージック」的ではあるが、この当時はそーゆーカテゴリーはなかった。
ルックス的にはパンタロンにトンボ眼鏡やヒゲや長髪、といかにもアンダーグラウンド的、ヒッピー的なキャラクターを前面に出してたので、立ち位置としてはフォーク寄りだったのだろうけれど、その割に曲がストレートにポップス的すぎた。
彼らの狙いとしては日本版セルジオメンデス&ブラジル'66だったらしいが、ラテンな感じはあまりしない。けれど、確かにスパニッシュ風のギターや、控えめにさらっと入るホーンなんかに、ラテンミュージックが主流だったロック以前の「洋楽」の匂いを感じることはできる。

この曲の次のシングルが「ハチのムサシは死んだのさ」なのだが、これはオリコンの順位で見ると最高位が8位。トータルでも20万枚程度しか売れておらず、65万枚も売れた「悪魔がにくい」に比べるとあくまでセールス的には下がってることになる。
いわゆる一発屋が陥りがちなシークエンスと言えるだろう。
が、一般には彼らが記憶されているのは「ハチのムサシは死んだのさ」によるところが大きい。こちらの方が、歌詞のユニークさ、振り付けの面白さもあって若年層にもアピールしたために実際のセールス以上に知名度が高いということなのだろう。
実際、この年に最初で最後の出場を果たした紅白歌合戦で彼らが歌ったのは「ハチのムサシは死んだのさ」だった。

自分も彼らの存在を初めて認識したのは「ハチのムサシは死んだのさ」によってで、その後「悪魔がにくい」も彼らの曲であることを追認したというシークエンスだったりする。曲の完成度としても「ハチのムサシは死んだのさ」の方が上なのは間違いないが、それでも自分は、彼らのユニークさを強調するような「ハチのムサシは死んだのさ」よりも、大ヒット曲にも関わらず顧みられることの少ない「悪魔がにくい」の方が、彼らのポジションをよく表しているのではないかという気がする。

まあ、冷静に考えてみると、歌も演奏もかなりビミョーなレベルだったりするわけだけど。


「ゴールデン☆ベスト」
いきなり1曲目が「悪魔がにくい」。
「生きながらブルースに葬られ」がJoplinのカバーなのかどうかが気になります。

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